2008年12月21日日曜日

12/21 Today サンタ・マリア・デ・イキケの大虐殺(チリ、1907)

Matanza de la Escuela Santa María de Iquique: "La Matanza de la Escuela Santa María de Iquique fue una masacre cometida en Chile el 21 de diciembre de 1907. En estos eventos fueron asesinados un número indeterminado de trabajadores del salitre que se encontraban en huelga general, mientras alojaban en la escuela Santa María del puerto de Iquique. Los eventos que configuran los hechos, suceden durante el auge de la producción salitrera en el Norte Grande chileno, bajo los gobiernos parlamentarios. La huelga, provocada por las míseras condiciones de trabajo y explotación de los trabajadores, fue reprimida por medio del indiscriminado uso de la fuerza armada por parte del gobierno del presidente Pedro Montt. "
チリの鉱山労働者が待遇改善を訴えてストライキを起こすが、小学校に隔離され軍の機関銃掃射により多数の死者を出した事件(1907)。この事件を唱ったアジェンデ時代の「人民合唱団」のレコードは素晴らしく、歴史的な名盤となっているが、ピノシェのクーデター後、長らく入手がむつかしかった。

ところが買えるのです。オリジナルレコード(LP)は1970年だが、2004年に米国で復刻版(CD)が発売されている。

Amazon.com: Chile: The Seige of Santa Maria de Iquique - A People's Cantata: MP3 Downloads: Quilapayún And Hector Duvachelle

iTunes Store でも買える。ちょっと原盤がすり減っている感じだが、ケーニャのメロディーとスペイン語の格調高いナレーションがとてもいい。

この事件について、You Tube に解説ビデオがある(音楽とナレーションは人民合唱団のものを使っている):


4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

久しぶりにこの曲を聴きました。といっても30数年前、マドリード・コンプルテンセ大学に籍をおいていた時分のことですから、メロディも歌詞もすっかり忘れていました。そう、こんなのだった。当時、わたしの住む学生寮にチリからきた学生たちが少なからずいて、1973年9月、チリにクーデターが起き、アジェンデが自殺したというニュースが流れると、国旗をひっぱり出してきて一晩中ドンチャカ騒ぎでした。アジェンデの急進的な改革に絶望し、スペインに亡命同然で逃れてきた有産階級の子女たちです。一方、そうでない左派系のチリ人留学生たちもいて、かれらがギターでときどきつま弾いていたのがこの曲でした。曲のイワクインネンを聞いたような気がしますが、「サンタマリア・デ・イキケ」という風変わりな名前だけが記憶に残りました。

Unknown さんのコメント...

こんにちは。あの時マドリードに居られたのですか。私はちょうどチリから山ひとつ隔てたアルゼンチンのメンドーサに居ました。チリからたくさん人が逃げてきてました。このレコードの最後に「こんなことが将来起こらないようにみんな団結しよう」という歌が入っているのですが、この歌を歌っていた人たちは、その後、集団でサッカースタジアムに収容され多くは死んでしまいました。とてもかわいそうです。

匿名 さんのコメント...

こんにちは。よろしくお願いします。そうですか、メンドーサですか。ワインの町という印象ですが、地図をひっぱり出してきて見ると、チリのサンチアゴとは本当に山ひとつですね。散人さんの「たくさん逃げてきて」という言葉に、スペイン内乱の末期、雪のピレネーを越えてフランスに脱出をはかる避難民の映像とイメージが重なりました。スペイン人も、チリの流血に30数年前の自分たちの姿を見ていたようで、遠い南米の出来事を毎日ハラハラしながら見守っていました。アジェンデを支えていた人たちの中には内戦の敗北後に亡命した彼らの知人、親族たちも大勢いたようです。常日ごろは政府批判に呵責のない弾圧を加えるフランコ政権も、このときばかりは不思議にほとんど検閲なしでチリからの報道を許していました。いまとなっては遠い、それでいてつい昨日のような出来事に思われます。

Unknown さんのコメント...

あの年はちょうどペロンが帰ってきて再選された年で、アルゼンチンはナショナリズムで集団ヒステリーの状態でした。「俺たちが一番だ、なぜなら俺たちはアルゼンチン人だからだ(Somos los primeros, porque somos Argentinos) 」とかの阿呆スローガンもありました。国が落ちぶれるとはこういうことかと実感しました。今のニッポンもそれに似ているところがあり、心配。